免許更新講習4日目は中島裕昭先生の「現代演劇と教育」。
はじめに小さな紙が配られて
(1)演劇において一番重要だと思うこと
(2)教育に活かそうと考えていること
を書く。
(1)ストーリー、世界観、見ている人(観客)の存在
(2)集団での制作になるので、必ず「分担」「協力」しなければならない。「恊働」のモデルになり得る。
と書いた。
その紙を近くの人たちで集まり、意見交換をする。
グループで意見交換をした後、全体で発表、みんなで共有する。
途中から(1)も(2)も混在していたが、おおよそ共感した意見は次のようになった。
・「伝える」ことを考えることができる
・生身のやり取りであること
・フィクションであること
・低学年の取り組みとして「なりきりごっこ」のような感じで取り組んでいる
・高学年の国語で古文「柿山伏」が出てきたときに読み解きながら劇にする
・他者の気持ちになる経験をする
・表現したいように表現する
・普段伝えられないことを言うことができる
・身体性
・間
・「伝えること」「聴くこと」ができるということ
それぞれの立場や実践経験によって書かれた意見が変わってくるのだろう。これだけでも視野が広がった気がする。
その後資料が配られ
1)ポスト・ドラマ論
2)パフォーマンス論
3)素材=身体論(と記号論)
4)メディア論
について解説があった。
これまで演劇について詳しく講義を受けたことがなかったので、どれも新鮮だった。
演劇学は文学研究の一部として始まったが、それは演出家が職業として成り立つ時期(20世紀前半)と重なる。それまでは譜面があって演奏があるように、まず戯曲があって舞台化されるのが当然のことだった(言語テクストの優位性)。その流れを否定し始まったのが「ポスト・ドラマ」である…というような話だったと思う。
パフォーマンス論では「日本の成人式は、成人になるパフォーマンスとして機能していないですよね」という話になり、この研究は文化人類学から派生しているとのこと。曰く「成人になったといってもお酒が飲めるようになるくらいしかないので、みんなとりあえずお酒を飲む訳です。」「枠」「相互行為」「経験」「変容」の共有が薄れてきているというのはわかりやすい。
その後、午前中はピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」を見て劇評を書くという課題に取り組み、午後はダムタイプの「ペーハー」を見る予定だったが、岡田利規ひきいるチェルフィッチュの「三月の5日間」を見て自由発言で意見交換をした。どちらの作品も評価は分かれるところで、それぞれの見方をすりあわせることで視野が広がる思いをした。この自由な意見交換は「対話型鑑賞」と似ていて、本編とは関係ないが改めて勉強になった。よくわからない、混乱するような刺激的な作品であると、思考回路は活発化する。解釈の幅が広いと意見を言ってみたくなる(ドキドキするけど)。
ピナ・バウシュのカフェ・ミュラーは舞踊作品であるがドイツ語で「タンツテアター」といわれ、劇的要素が多い舞踊である。自分ではがんばって見ていたつもりであるが、ストーリーらしきものもとらえがたく、後半はまぶたがおりてきてしまった。しかしグループ内の他の人の劇評を見てみると、解釈してみたストーリーが描かれており、それはピッタリと合っている気がして、思わず「ほお〜」と感心するばかりだった。全体で話し合う意見にも面白いものがあったし、美術作品以上に「好き」「嫌い」の分かれ方にばらつきがあったりするところも面白い。意見や解説を聞いて最終的には、デビッド・リンチの「ブルーベルベット」みたいだなぁと思った。
この他のメモを振り返ってみると
演劇作品の「狙い」や「表現したいこと」を言語化する必要性がありやなしや、という問いかけや、今回の講座の目的は「自分の価値尺度をかえりみる」という事です、という事や、「【ベルサイユの薔薇】を見て感動した!」というときの「感動」はどの部分に感動したのか人によって全くちがうものであるという「多安定的知覚経験」…など、実にたくさんの事を学べた講座だった。
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