2014-11-27

考えたこと:表現するということと「そこにないもの」の関係

自分でお金を出して買ったものは大切にする。
タダで手に入ったものはそれなりの扱いしか受けない。

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自分たちの生活や豊かさが当たり前のようにあって、きっと今日と同じ明日がやってくるに違いないと思っている。

だから多分テレビで流れているニュースやヤフーの見出しに出ているトピックスが伝えるニュースで悲惨な事件や天災の類が報じられたとしても、自分に実害が及ばなければすぐに忘れてしまう。

だって日常はきっと続いていくじゃない。また同じ日は続くじゃない。

でも本当はそんなことはなくて、
事故にあうとか、病気になるとか、災害にあうとか、
どれが起きるのかはわからないし、ずっと起きないのかもしれないけれど
日常なんてあっという間に失われるものだということから目を背けるというか、見ないように考えないようにしているというか。

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内田樹さんのblogを読んだ。

スッと腑に落ちるような感覚になった部分を勝手ながら引用させていただく。
全てを読む方は長いですけれどもアドレスを記載しておきます。
http://blog.tatsuru.com/2014/11/26_1711.php
----以下引用----
でも、僕たちが最終的に「くに」を立て直す、ほんとうに「立て直す」ところまで追い詰められていると思うんですけれども、立て直すときに僕らが求める資源というのは、結局、二つしかないわけです。
一つは山河です。国破れて山河あり。政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残ります。そこに足場を求めるしかない。もう一つは死者です。死者たちから遺贈されたものです。それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚です。
山河というのは言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀であり、あるいは山紫水明の景観です。我々自身を養って、我々自身を生み、今も支えているような、人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた、一つの非常に複雑な培養器のようなもの、僕はそれを山河と呼びたいと思っています。山河とは何かということを、これから先、僕はきちんと言葉にしていきたいと思っています。
もう一つは死者たちです。死者たちも、未来の世代も、今はまだ存在しない者も、我々のこの国の正規のフルメンバーであって、彼らの権利、彼らの義務に対しても配慮しなければいけない。
僕は合気道をやっているわけですけれども、経験的にわかることの一つというのは、例えば体を動かすと、自分の体の筋肉、骨格筋とか、関節とか、そういうものを操作しようと思って、具体的に、今、存在するものをいじくっていっても体は整わないということです。
しかし、例えば今、手の内に刀を持っている。ここに柄があって、刃筋があって、切っ先がそこにある。手に持っていないものをイメージして体を使うと、全身が整う。
これは長く稽古してよくわかったことなんですけれども、実際には、我々は今、存在するもの、そこに具体的に物としてあるものを積み上げていって、一つの組織や集団をつくっているのではなくて、むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、組織や身体、共同体というものを整えている。これは、僕は実感としてわかるんです。
今、日本人に求められているものというのは、日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」だと思います。存在しないのだけれど、ありありと思い浮かべることができるもの、それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの、自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。太刀というのは手を延長した刃物ではなくて、それを握ることによって体が整って、これを「依代」として巨大な自然の力が体に流れ込んでくる、そういう一つの装置なわけです。それは、手の内にあってもいいし、なくてもいい。むしろ、ないほうがいいのかも知れない。
----以上引用----
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他にもいろいろと考えたんだけど、忘れてしまった。

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で、それらがつながったように感じた一瞬があり、

私たちが舞台を作っていく上で何を見せようとするのか。何を表現するのか。見た人の心に残すものは何か。その辺が少しつながった気がするのでありました。

でも時間とともにまたもやもやの中に入って行ってしまったようにも感じる…。

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